動物って難しいよねという話。

 

 


私は割と食肉に対する欲求が低い方で、放っておくと素麺に漬物、みたいな方向に行きがちなので尚のことそう思うのかもしれないけど、例えばムツゴロウとかが「わしゃしゃ!」とか言って凶暴な動物に擦り寄って行って噛まれたりしてる姿を見ると「何なんだ」とか思ってしまうのよね。

 


こっちが「お前こそ我が相棒…」とか思ってても向こうがどう思ってるのかなんて分からない。猫はよく人間をでかい猫だと思ってるみたいな言説があるけどきっとその程度だと思う。犬だって飼い主が死ねば死体を食べ始めるし。だから「お前と私」みたいな感覚も言ってしまえば人間のエゴだよなぁと思うんだよね。

 


でもだから、だからこそだけど余計に生き物を飼うって物凄く恐ろしく困難な事で、また常にそうあるべきだと思うんだよね。「いいやまた飼えば」とかじゃなくて。私が動物可愛いけど飼うのは怖いなって躊躇しちゃうのはそういう点。

 


飼うって何、って話だけど、私は昔から割と、割とと言うか大体において動物園とかペットショップとか行くと気持ちが沈んじゃう方なのね。ケージの中にいる動物の想いに身を寄せてしまうというか、そんな事向こうは考えてないかもしれないけど、気分が落ち込む。帰りたいよねお前も、故郷に。とか思っちゃって。放っておくとすぐに寄生獣の後藤の様な思想を抱きがちなんだけど。この種を食い殺せみたいな。おろかなにんげんどもめ…みたいな。

 


だからって別に動物園を廃止せよとかいう話でも無くて、動物園は動物の生態を知る上で有効な施設だと思うし。ただ何だろう。全てにおいて我々人間が動物の意志を全て掌握しているみたいに思うのは須らくエゴだと思うという話。同じ人間同士ですらそんな事難しいのに。

 


私も猫を実家で飼っていた事があるけど、1匹目は野生出身の捨て猫だった。非常に快活で成長するとひとたびバステトの化身か?という素早い身のこなしで人間を翻弄するしなやかな美猫に育ったけど、結局肺炎を拗らせて亡くなってしまった。報せを受けて帰ったらお花を敷き詰めた段ボールに猫が寝ていて、まるで眠っているようだった。撫でるとまだうっすら暖かく、本当に凄く、とても悲しかったのを覚えている。

 


ヒトもそうして動物の死を悼む事が出来る。そして愚かにも猫の喪失感に耐えきれなかった我が家の親はペットショップでアメショを購入してきたのだった。因みにまだ生きている。だからそう、そのくらい、そのレベルに人間の心に介入する、或いは介入出来る尊い存在だと思うのよ、ペットと言うか動物って。

 


そのくらい多分尊厳がある。だから私は猫の避妊とか、飼う以上必要な処置なのだけれど、懐疑的とでも言えばいいのか、そこまでしないといけないのかという、いや勿論飼う以上必要なんだけれども。でも私が「お前は今日から私の子。さぁ去勢をしましょうね」とか微笑みながら言われたらとんでもなくホラーでグロいなと思ってしまうのよ。まぁ繰り返し言うけど責任を持って「飼う」以上避妊は勿論、全ての工程、また飼育は完璧に遂行されるべきなので必要な処置ではあるのだけど。

 


だから何だろうね。動物園もサファリパークみたいな状態が一番いいのかもしれない。ある程度野生が担保されている状況下に檻で囲まれた我々が侵入していく、という。それなら下手すると檻から飛び出した人間が無惨に食い殺されるみたいな状況も生まれる訳で、ある意味フェアだなと思う。

そのくらい本来動物は恐ろしい物なのですよ、という。

 


翻って猫にもそれは言えると言うか、猫ももしかすると半野良の状態が一番いいのかもしれない。「たまにウチに寄っておいきよ、でもアンタにもアンタの生き方があるだろうから好きにおやり、発情期にもなればアンタも家族を持ちたいだろう。いつでも帰っておいで」くらいの実家の様な距離感で接するのがいいのかもしれない。例え完全な家猫じゃなくても、どこかでいつか車に轢かれて死んでしまうかもしれないけど、でもそれは、それも含めて猫本人(?)の人生だ。「俺はこう生きたかったのだ」と言われたらきっと猫本人にとっては悔いの無い人生…猫生だったに違いない。知らんけど。失った我が家の野生出身の猫はその素早い身のこなしでよく家の外へ駆け出して飛んでいき、その度顔面蒼白になったものだが、もしかしたらあの時だって猫の野生へ帰りたい欲求があって、そこで仮に死んでしまうような事があってももしかすると猫本人としては本望だったのかもしれない。ちゃんと帰ってきたけどさ。

 


でも人間社会を一応営んでいる以上、避妊しなければ猫も苦しいし、とは言え際限なく交配させ続けていけば結局生まれた子達が可哀想になる。そして、かの「生き物苦手」な人達の格好の餌食となる。或いは本当に害獣として鬱陶しいと思っている人達の怒りの琴線に触れるかもしれない。半野生で暮らすというのはそういう事だ。人が下手に手を出すべきでは無い。この人間の暮らしの中でひっそりと猫一族が共生するというのは、餌の調達から子育てに至るまで、人間と敵対しながら生きるという事なのだから。私達は猫の思想にも立てるけど、同じ種族の猫嫌いの人間の思想にも立たないといけない。もし隣人に過度の猫嫌いがいたとして、下手に餌を与えて安心できる場所を猫に対し中途半端に提供すれば、今度は隣人との敵対関係を生む。非常に良くない。だから難しい。難しいうえに、考え続けなければならない問題だと強く思う。

 


でも人って本当にエゴイストだから、同時にやはり愛玩したいし、そして実際とても可愛いんだよね。だから怖い。いや怖くあるべきだと思う。「飼う」という事。そのくらいのものであるべきだと思う。でもいつも思うけど私はこの己の強大すぎる力を無慈悲に発揮してしまい、例えばハムちゃんとか無惨に踏み潰してしまったりしたら多分きっと一生立ち直れない。死ぬまで「何故潰した」とエヴァ最終話みたいな黒字に白の明朝体が永久に脳内に浮かび続ける状況に陥ると思う。だから怖い。怖くて、その責任を全うできる自信が無い内は手を出すべきではない、とも思う。すごく飼いたい、と言うより共に過ごしたいなと思うけど。ゴールデンレトリバーとか。

 


だから愛しながら、でも正しく生き物と共生している人達は本当に素晴らしいなと思う。ケージに閉じ込められて潤んだ瞳で見つめる動物を思うと悲しい気持ちにはなるし、それら動物を売買する事を生業にした商人達の暗部を見るにつけそのたび余計に「許せぬ」と思ってしまうけど、でもやっぱり可愛い。可愛いから、やはり怖くあるべきだ。生き物を扱う事も、生き物と暮らす事も。全てにおいて尊く、また恐ろしい事なんだと思っているべきだと感じる。

 


「肉を食いながらその対象を擁護する事はおかしい」と言うけど、私はそうは思わない。人間は意思疎通出来ないものと意思疎通したいと思うし、また尊いと感じ、愛する事が出来る。ただ動物の側は分からない。そんな事望んでないかもしれないし、もしかしたら「この人間は俺がニャアと鳴けば愚かにも餌を持ってくるぞ。さぁちゅーるを寄越せ」などとしか思ってないかもしれない。でもそれでいいと思う。別に。

 


人間も動物である以上、今の所肉を食べる必要がある程度あって、そこから脱却出来ない以上、仮にそれが人間にとって都合のいい解釈になってしまったとしても、やはり自分達をおためごかす文化や教養が必要で、その為の「いただきます」なのだと私は思う。動物はいただきますなんて言わない。食べる、食べたいから食べる。でもじゃあゴキブリを殺すなんて人非人だと言うけど、ゴキブリを解体して悦に入る人っているんですかという話。ならいっそ、痛みすら感じる暇もなくここで死ね!と言うのが責めてもの矜持と言うか、いやそれも人間の自己都合に過ぎないのだけど、でも出会ってしまった不幸を嘆くべしと武士の心意気でひと思いに始末するのが我々に出来る最大限の譲歩なんじゃないのか。

 


だからやっぱり「無惨に解体しました、50匹ほど」と言うのは私はどう足掻いても許されるべきではないと思う。いや誰が許すとか許さないとか、お前は誰?と言われたらそれ迄だけど、それでもやっぱり胸糞悪いというこの気持ちは本当だと思うから。もし貴方にとってそれが許されざる害悪であったなら、その時はひと思いにやっつける気持ちを抑えて然るべき機関に連絡すべきではないのか。解体作業に愉悦を感じ始めているとすれば、私はそれは「生き物苦手」の本質から逸脱していると思う。無惨に殺す必要性を、少なくとも私は見出せない。

 


この話は何処まで行っても平行線に終始しがちだけど、私は動物を可愛いと思う気持ちも大切にしたいと思う気持ちも、うざいと思う気持ちもまとめて全て人間のエゴだと思う。でもだからこそそのエゴについてずっと考えていかなくてはならない。考え続ける必要があると思う。食べる以上、頂く以上。或いは可愛がる以上。

 


以上です。